東京オリンピックは大盛況で大成功となりました。
市川崑監督の映画『東京オリンピック』は、人の心を揺さぶる力に満ち溢れた作品だったと言われました。
ところが、1964年の東京オリンピックのバレーボール男子のコーチだった松平康隆氏は、あの映画を見たときの屈辱は今も忘れないと振り返った。
「オリンピックの映画が完成したときいて、さっそく見に行った。
3時間近い大作でした。今か今かと待ちました。ところが、男子のバレーボールについては1シーンどころか、1カットも無かったんです」
1964年東京オリンピックでバレーボールの日本男子は銅メダルを獲得していた。しかし当時はバレーボールといえば女子が代名詞であり、
“東洋の魔女”の陰に隠れた男子は、歯牙にもかけられない存在だった。
1964年東京五輪の男子バレーボールで、日本は銅メダルを獲得した。世界選手権で60年8位、62年5位。苦境からよじ登った表彰台だが、女子の金にかき消された。
東京で銅メダルを取った時、世間やバレー界が女子の金ばかりもてはやして、男子は一顧だにされなかったという屈辱の思い出も、
「いまに見ていろ」の思いをいっそう燃え上がらせたようだ。
更には、女子バレーの祝賀会に男子陣は呼ばれず、
「男子バレーが忘れ物にされた」と選手は悔しい思いをしていた。
そこから松平の反骨精神に火が付く「負けてたまるか」
監督となった松平は8年計画を掲げた。
すなわち、次のメキシコで銀 その次のミュンヘンで金メダルを取るという計画である。
その後、男子はさまざまなアイデアを取り入れ、1968年メキシコ大会で銀メダル、1972年ミュンヘン大会では金メダル獲得へと昇りつめた。
松平は、全盲だった母親に厳しく育てられ、松平のリーダーシップは形作られ
目が不自由な母親にもはっきりと意思が通じるように「語尾をはっきり言え」、そして、いじめられても「負け犬になるな」と徹底して教えられて育ったそうです。
その精神が金メダルへつながったのではないでしょうか。