ふじおか不動産株式会社

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婆子焼庵(ばすしょうあん)
「婆子」とはおばあさん。
「焼庵」とは庵(いおり)を焼いた、という意味です。
・つまり、「おばあさんが、いおりを焼いてしまった」という禅の問答。
 私は、今野敏の「隠蔽捜査」が好きです。
今まで1から9まで発行され、スピンオフで3.5,5.5が出ています。
通常の刑事ものの小説ではなく、警察官僚の話です。
その隠蔽捜査の3疑心の中に婆子焼案が出てきます。

隠蔽捜査3は、
アメリカ大統領の訪日が決定。大森署署長・竜崎伸也警視長は、羽田空港を含む第二方面警備本部本部長に抜擢された。
やがて日本人がテロを企図しているという情報が入り、その双肩にさらなる重責がのしかかる。米シークレットサービスとの摩擦。そして、臨時に補佐を務める美しい女性キャリア・畠山美奈子へ抱いてしまった狂おしい恋心。竜崎は、この難局をいかにして乗り切るのか?と言うストーリーです。
畠山美奈子へ抱いてしまった狂おしい恋心をどうやって克服するかと悩み先人の知恵をかりるため「公案」を読みます。
※公案(こうあん)とは、禅の問答、または問題をいいます。
婆子焼案は、
ある奇特な婆さんが坐禅修行している人で、見どころのある若い禅僧にわざわざ自分の家の離れに庵まで建てて、三度三度食事を始め、生活の面倒をしてあげていた。
若い禅僧は、その恩に報いるために、それはもう、坐禅の修行だけを心がけて、精進していた。
あっという間に20年が経過した。20歳だった禅僧も、男盛りの40歳となった。
ある朝、婆さんは、給仕している娘にこう言った。
「今日は、お膳をお坊さんの前に置いたら、そのまま、すそをパッとひらいて、抱きついてごらん」
そして、お坊さんにこう言いなさい、と、言った。
『正恁麼(しょういんも)の時、如何(いかん)こういうときはどんな気持ちですか?』と・・・
「はい」と言って娘は、言われた通りお坊さんに、色っぽく抱きすがった。
カッカと燃えるようなふくよかな足を、さらりと流して、甘い牡丹お花が咲き崩れるように、20年間、一心不乱に坐禅修行した禅僧の胸に、誘惑の火を吹きかけた。
するとこの禅僧はどうしたかというと、
すずしい顔をして、『枯木寒巌(こぼくかんがん)に倚(よ)って、三冬暖気無(さんとうだんきな)し寒い岩の上に枯木が立ったようなもので、何ともない』と答えた。
ちょっとやそっとの修行ではそういうことは言えません。
禅僧は落ち着き払って、筆を取り、紙にすらりと、『枯木寒巌に倚って、三冬暖気無し』と書いた。
『これを婆さんに持って行きなさい』
娘は、何がどうしたのか、ほとんど、わからなかったが、禅僧のいうとおり、墨で書かれた紙を握り、恥ずかしそうに、戸を開けて、出て行った。
婆さんは娘が持ってきた禅僧の書いた文字をマジマジと見た。
さっと、婆さんの顔色が青ざめた。
紙を持った手が、震え出した。
禅僧は『これで20年も世話をしてもらった婆さんにも、顔が立つ。わたしは、徹底した修行によって、ついに揺るぎない不動心を得た。性の誘いにも全く動揺することは無かった」彼はそんなふうに思っていた。
そこへ婆さんが烈火のごとく、バタバタと、飛び込んできて『我20年こ俗漢を供養す」と大声を上げ、棒を振り上げて、この禅僧を叩き出した。
・つまり、こんな糞坊主に二十年もムダ飯を食わしたというので、坊さんをたたき出して、その庵を焼いてしまったというのだ。
婆さんは、なぜ、こんな行いが綺麗で潔白な禅僧を、追っ払ったのか?
禅僧は、なぜ、自分が、こんなにも無礼なやり方で、追い出されたのか、さっぱりわからなかった。
禅僧としての行動は正しかったとするならば、娘に対する言葉掛けに問題があったのではないだろうか・・・

「わたしは20年もの長い年月、修行を重ねてきた。そして、断崖絶壁の頂上に立っている枯れ木のような存在に到達することができたのだ。あなたがいくら魅力的な女性といえども、この境地には至れまい」
女性軽視の心根だ。
20年も娘にお世話になっていながら、坐禅を組んで、自分だけが、格の高い人間になったと思い違いをしている。
禅僧の娘に対する不遜で傲慢な心根に対する怒りではないだろうか。
朝昼晩と食事を運び、みんなで何かと世話をしてやったその娘に対して「ありがとう」と感謝したことがあるのか。
仮にそんな気持ちがひとかけらでもあれば、こんな言葉掛けはできやしない。
他に言いようがあったはずだ。

いつも自分だけ、むっつり坐禅を組んで、すましこんで、自分だけは、菩薩のような顔をして、優しいいたわりや、感謝の言葉の一つもかけずに、威張り腐っている。
何のための修行だったんだと・・・

この禅問答は、人から相談を受けたり、人を諭すような立場にあるものは、常に謙虚で他人を慮(おもんぱか)る姿勢がなくてはダメだ、ということを説いているように感じた。
教育の世界においても着目されがちなのはテストの「点数」や「順位」だが、目指すべきは「心を耕す」ことである。

つまり、育てるべきは『心』であると断じたい。



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